2012年12月19日
本谷社長の退任に寄せて
サンフレ新社長に小谷野氏 「経営再建進める」
《中国新聞2012年12月19日 閲覧:2012年12月18日》
J1サンフレッチェ広島は18日、広島市中区のホテルで取締役会を開き、常務の小谷野(こやの)薫氏(49)が1月1日付で社長に就任することを承認した。本谷祐一社長(58)は年内で退任する。
小谷野氏は東京都墨田区出身。東京大教養学部を卒業し、米ニューヨーク大経営大学院を修了。野村総研やクレディ・スイス証券などを経て、2010年に家電量販店エディオンの顧問に就任。今年4月にクラブの取締役となり、9月から常務に就いている。
小谷野氏は「経営再建が進む中で、実現できていないものがある。着実に取り組んでいきたい」と話した。
本谷社長はJ2に降格した07年12月に就任。今季は森保一監督を招き、初のリーグ制覇を成し遂げた。経営面では20億円を超える累積赤字解消のため昨年12月に減資を断行。5カ年の再建計画を策定し、今季から経営安定化に取り組んでいた。
本谷社長は退任理由に減資を挙げ、「株主の皆さまの財産を損なった責任を明確にすべきと判断した」と述べた。(山崎雄一)
12月はJリーグファンにとって別れと出会いの季節。
サンフレッチェ広島からまだ契約満了選手のリリースは発表されていません。
一方で、DF森脇の浦和移籍が発表、森山佳郎ユース監督の退任が確実となっています。
これらに加えて18日の取締役会で本谷社長の退任と小谷野社長の就任が決定しました
今回は2012年総括の一環として。
そして本谷社長の退任に寄せて、少しばかり振り返ってみます
※かなり読みづらい文章になっていると思います。申し訳ありません
①本谷社長就任の経緯
本谷社長がサンフレッチェの社長に就任したのは2007年12月のこと
2007年は広島サポにとって悪夢の一つ、2度目のJ2降格が決定した年でした。
降格決定後、当時の久保社長は選手・監督ではなくフロントに問題があったとして社長を辞任。
また、現浦和監督のペトロヴィッチ監督の続投を明言。
そして、「経営とサッカーの両面に見識のある常勤の球団社長を据える」と発表しました
この発表には多くのサポーターだけでなくマスメディアも驚きを隠せませんでした。
降格して監督や選手ではなくフロントが責任を取るというケースは前代未聞。
34試合戦って8勝8分け18敗と勝ち点は32、得点44の失点71。
数字だけを見れば言い訳のきかない結果でしょう
降格決定後、フラール(当時BA内にあったレストラン、現在は閉店)で開かれた臨時サポカン、翌年1月に開かれた第2回サポカンでも監督留任について厳しい言葉があったそうです
また、ペトロヴィッチ監督が退任した2011年シーズンこそファン・サポーターは涙していましたが、2008年の試合において選手のコールはあれど監督に対するコールはありませんでした。
それほどまでに降格という現実はファン・サポーターにとって厳しいものだったのです
そんな逆風のような中で社長に就任することとなった本谷社長。
私たちが思っている以上の重圧があったと思います
②就任直後に掲げた目標
本谷社長は、就任直後に4つの目標を掲げました
【参考】
新社長・本谷祐一より、サポーターの皆様へ
《サンフレッチェ広島2007年12月28日 閲覧:2012年12月18日》
1つ目は1年でのJ1復帰。
地方クラブにとってJ2降格の最も恐ろしいところは収入の激減です。
確定的に減るJリーグ配分金の他、入場料収入・広告料収入も減ります。
予算が減れば減るだけJ1復帰の道は遠くなってしまいます。
だからこそ早期のJ1復帰が至上命題でした
2点目~4点目は次の通り。
- 監督・コーチ・サポーターの皆様とのコミュニケーションをしっかりととっていく
- 下部組織の維持・強化
- 現在の業務はゼロベースで見直し、新年度から組織改革、社員の意識改革を行う
結論から言うと、この4つの目標はほぼ達成されたと考えています。
1つ目と2つ目に関しては昇格及び翌年の成績をもって証明されたとみていいでしょう。
ユースについては以前書いたとおり、評価基準によって変わりますが評価しています。
そして、本谷社長の最大の功績の1つが4つ目の社内改革だと考えています
私の責任 サンフレッチェ広島 久保允誉会長インタビュー
《紫熊倶楽部 2008年2月号vol.120》
自分には、サンフレッチェとは別に本業がある。サンフレッチェのことももちろん気になっていたし、そちらにかかわりたいと思っていても、それは難しい状況でした。だから「頼む」という形になってしまい、今年はサンフレッチェにはほとんど関われなかったんです。
2008年2月号の紫熊倶楽部に掲載された久保会長の「私の責任」というインタビュー。
このように、久保会長は降格の要因としてフロントの問題点を挙げています。
社内改革を行うことが新たに就任する社長に与えられた重要なタスクだったのです
ソースを準備できませんでしたが、2007年における補強は後手だったと聞きます。
トップとの意思疎通が難しかったため1つ1つのアクションが遅れてしまったと。
2008年以降の補強の成功・迅速さがこの社内改革の成功の一端を示していると言えますね
(この社内改革については次項でも少しだけ取り上げます)
③J1復帰以降に目指したこと
2009年に1年でのJ1復帰を果たしたサンフレッチェ広島。
そこで本谷社長が掲げた目標の中で代表的なものは2つあります。
1つは2年間での成績目標、もう1つは年間予算の拡充です
成績目標は、2年間でタイトルを獲得することとACL出場権の獲得でした。
タイトルの獲得はなりませんでしたが2010年にはナビスコカップ決勝に進出。
また、ACLへの出場も果たしています
年間予算の拡充とは、2008年に立ち上げた「30億円プロジェクト」のこと
フロントを2本部制に 組織見直し
《中国新聞2008年2月1日 閲覧:2012年12月18日》
J2広島は31日、広島市中区のホテルで取締役会を開き、2月1日付でのフロント組織の変更について承認を受けた。従来の1本部5部制から、管理強化本部と事業本部の2本部制を採用する。
管理強化本部はトップチームなどを担当する強化部、普及部、総務部を統括する。本部長は本谷祐一社長が兼務する。
事業本部は従来のホームタウン本部を吸収。営業部、運営部、ホームタウン推進部、広報部を束ねる。本部長には今後、主要株主のマツダから就任予定の取締役が就く。
2本部7部とは別に、各部にまたがる事項やマーケティング調査などにあたる企画部を新設。さらに、J1クラブの平均売上高30億円を目指す「30億円プロジェクト」も発足させ、2006年度の約23億円からの大幅増に取り組む。
組織の見直しは、今回のJ2降格の一因にフロントの意思決定の遅れがあったとの反省から実施。本谷社長は「常勤取締役は私と就任予定者の2人体制となる。協力し合い、より細かく見ていく。情報を共有することで意思決定を早めたい」と説明した。(佐藤正明)
なぜ30億円なのかについては第4回サポカンで語っています
第4回サポーターズ・カンファレンス
《2008年12月14日開催》
なぜ選手強化費に回すのかというと、J1のカテゴリーに入ったとしてもサンフレッチェの選手強化費の総額は下から2番目か3番目です。これでは、「常に優勝争いをしろ」とはいえない。これをJ1中位ぐらいにもっていかないといけない。売り上げを伸ばして経費を削減し、余った分を選手強化費へ、ということをやっていきます。
いま目論見をしているのは、来年の予算を25億円台~26億円弱にもっていくこと。来年から考えて3年後には、収入規模を30億円まで持って行ければ、選手人件費は間違いなく中位ぐらいのところになります。戦えるチームになるし、選手にお金もしっかり出せると思っています。
このようにJ1復帰後はJリーグのなかで中堅クラブを目指す思考だったことが分かります。
そして、それは現在でも変わっていません
サンフレッチェ広島のブレない指針(前編)【サッカー批評 issue50】
《フットボールチャンネル 閲覧:2012年12月18日》
「建前の部分ではACLを目指すべくJリーグ3位以内に入りたい。あるいは、ナビスコカップ、天皇杯のタイトルを獲りたい。ただ、うちのクラブの現実的な目標はリーグで7位以内。賞金獲得圏内にいること、居続けることです。これが一番大事なことではないかなと思っています」と語る。
その道筋を付けることが出来たのではないでしょうか。
実際にJ1復帰を果たした2009年以降4年連続で賞金圏にいるクラブは広島だけです
④積み残した宿題
前述したように就任当初に掲げた目標の多くは達成されたと思います。
一方ですべての目標が達成できたとは言えません
1つ目は前述した「30億円プロジェクト」
このようにサンフレッチェの営業収入は2009年以降安定して26億円を超えています。
しかし、目標の30億円には3億円~4億円不足しているのもまた事実。
第4回サポカンで、本谷社長は「来年から考えて3年後には、収入規模を30億円まで持って行ければ」と語っていましたが、目標の2011年に達成することは出来ませんでした。
2つ目の宿題は観戦環境。
すなわちアクセス問題の改善とサッカースタジアム建設になります
アクセス問題についてはクラブ単独で解決できることは多くありませんでした。
ほとんど臨時駐車場の消滅と新しい駐車場の追加といういたちごっこだったように思います。
アルパークからのシャトルバス消滅、広島空港からのバスの社会実験などもありましたが
スタジアムについて取り組んだことの1つは芝かぶり席の創設でしょう。
先日書いたとおり、これは「臨場感」を伝えるための施策でした。
また、2009年にはスタジアム推進プロジェクトを再始動させています。
これは結果から言うと失敗に終わったとみています
(追記)
この他に、2011年1月から県サッカー協会主導の署名にも協力しています。
後述する現在の署名はこれが発展したような形
2012年の8月からはついにスタジアムの早期実現を目指す署名を開始しました。
17日現在で33万件を超える署名が集まっており、目標の20万件を大きく超えています。
ただし、署名は集まっていますが実現のための1歩でしかありません。
署名の後には建設地の話、建設費の話、運営の話とまだまだ続きます。
今はそのための礎の段階だと考えるべきです
3つ目の課題は今年5月に行った減資の影響です。
減資とはなんなのかということについては下記URLが分かりやすいと思います
【参考】
増資と減資-いま聞きたいQ&A
《man@bowまなぼう 閲覧:2012年12月18日》
なぜ減資を行ったのか。
それは就任前からあった赤字が積み重なっており、それに就任以後の赤字が嵩んだから
理由はあるのですが、本谷社長のもとでの経営成績は4期中3期の赤字でした。
債務超過の危機という視点で見れば2006年に後戻りしてしまったとも言えます。
今年、減資と増資を行ったことで経営体質は相当回復することが出来ました
しかし、これは株主の資産を削って生まれたもの。
冒頭のニュースにもあるようにその責任を取って今回退任となりました。
クラブライセンス制度のこともあり、今後の経営は大きなテーマになることは間違いありません
⑤本谷社長の退任に寄せて
つらつらと書き殴ってきましたが、本谷社長には感謝しています。
すべてがすべて達成できたわけではありませんでしたが、まさに「立て直し屋」。
何より、サポーターにとって辛い時期を一緒に戦ってくれました。
本谷社長が就任されてから5年。長かったようでとても短かった。
その最後の年を「優勝」という形で締めくくれたのは本当に嬉しいです
上で書いたことはあくまでも私が今回の記事を書くにあたって思い出した部分だけです。
本谷社長がやってこられたことはこれだけではありませんし、私の知らない部分もあります。
ただ、多くの人にとって「優勝したときの社長」だけでなく「苦楽を共にした社長」。
そういう形でも記憶に残ればいいと切に願います
サンフレッチェ広島の強みは育成組織だと長らく言われています。
それは間違いないと自負する一方で、"フロント力" もまたJ屈指だったと胸を張りたい
5年間本当にお疲れ様でした。
ただ、2012年でサンフレッチェが終わるわけではありません
ギフト~E名言の世界~"のフレーズ・例文
《ゴガクル 閲覧:2012年12月18日》
個人であれ、企業であり、成功を手にしたと思った瞬間に進歩は止まるのです。
トーマス・J・ワトソン
本谷社長のサンフレッチェは一旦終わります。
しかし、サンフレッチェも本谷さんも止まらず、進み続けるんです。
小谷野社長、これからのサンフレッチェを宜しくお願いします